他人の人生

210103

 

実家の台所、大きなお鍋でミルクティを煮ている。ぐつぐつ。じんわりとあたたまっていく白い液体を眺めながら、大切な人が寂しさに潰されそうになっている夜にこれを作ってあげたい、と思う。小さく揺れているこの液体はいつか誰かの心を癒やしてくれるだろう。それはとても、素敵なことだ。でも、わたしのことだから、たぶんミルクティを好かない男を好きになってしまうのだと思う。ミルクティが好きな男を、たぶんわたしは好きになれない。

 

そういえば最近、確信したことがある。わたしは男の人の身体を美しいと思えていない。まったく。そこにあるのは生物の肌で、それはただの物質。それ以上のことを、そこから受け取ることができない。男の人を美しいと思えるのは、無防備な状態であるとき。飾らない、飾ることができない、その人がその人として、ありのままでしかいられない空間を(わたしが)創ってあげられたときにだけ、ほんの少しの幸福を感じる。不必要な雑音、言葉のない──それでいて満たされている──空間のほうが、目にみえるわかりやすい何かよりもよっぽど美しい。目にみえるもの、触れられるもの、かたちがわかるもの、言葉に表せられるものというはそれだけでつまらない。わたしも弱い人間のひとりなので、モノに縋りたい──縋らないと生きていかれない、人のきもちも痛いわかる。愚かだと知りながらも、モノを強請ってしまうこともある。でも、欲しいものや欲しい言葉を手に入れた瞬間に、わたしが本当に大切にあたためているものの生命がぷつりと途絶えてしまうこともわかっている。だから、わたしの手元には"なにもない"。それを望んでいるし、実際に叶えられてもいる。何も悲しいことではない。足らないことは、不幸を意味しない。