他人の人生

201120

「やってみなきゃわからない」ということがあまりにも多過ぎて、いちいち疲弊する。いざ、というときに躊躇いもなく飛び込める種類の人間がいる、ということに気付きたくなかった。小学生の頃は、みんながわたしと同じように、大縄跳びで自分の順番が来るのを、日直が回ってくるのを、出席番号と同じ数字の日が訪れるのを、ひどく恐れていると思っていたのに、実際は全くそんなことはなかった。まあどうにかなるでしょ、と思える種類の人がいる。失敗してもぼくのせいじゃないし、と思える人がいるということを、知らないまま生きたかった。

 

自己防衛でも現実逃避でもなんでもいいから、「鈍感」になってみたい。何も感じない人間になりたい、とは思わないし、すみっコぐらしの映画の感想をわたしに伝えながらぼろぼろと泣いちゃう友達のことを人間らしくて美しいと思うし、多感だから得られたものがたくさんあるということもわかっているけれど、たまに(いや、全然たまにではない、頻繁に)疲れてしまうから。よく、疲れてしまって、動けなくなってしまうから。身体というより、心が、疲れて動かなくなる。動くことを拒否する。

 

"清々しい"と表せられる青空をみても、愛らしい鴨の親子をみても、アスファルトの上でぐちゃぐちゃに潰されたタバコをみても、何も感じない。何を見ても、「あー、疲れたな」としか思えない。できれば、そういう状態になりたくないのだけど、結局「多感」は疲れる。

どうやら世の中では'繊細さん'というやつが流行っているらしい。「わたしと同じような悩みを抱えている人がいる」ことを知るだけで救われるほど、簡単な話ではないと思うのはわたしだけなのだろうか。繊細さんにしても○型自分の説明書にしても、当てはまることと当てはまらないことがある。それは全部に言えることだから、結局は何でもない、のかもしれない。

 

自分が繊細さんでも、友達が繊細さんでも、実はこの世のみんなが繊細さんでも、逆にこの世の誰も繊細さんでなくても、わたしがいま疲れている、という事実は変わらない。残念ながら、なにも。