他人の人生

210724

 

あなたが、人々の心を癒すやさしいものを創れるひとだということをわたしは知っているから、わたしにできることは何でもする。そういう「支え方」はただの依存だと、一蹴されてしまうのか。20代後半になっても定職につかず、ふらふらしながら夢を追いかけている彼とわたし、「二人分」の生活費を稼ぐためにお水に足を踏み入れる彼女、気持ち悪い性癖を持つオジサンと愛人契約をする彼女。それでも、彼の才能を信じ、一番近くで彼の創るやさしい音楽に触れていたいと望む。ツチダはせいいちから「離れられない」、だけで、「離れたくない」と意思していたわけではなかったのだろう。

 

そう、今週は「南瓜とマヨネーズ」を観た。エアコンが効きすぎている部屋で、ふたつのビーズクッションに埋もれながら。手元には朝自分で淹れたコーヒーと、江國香織を読んでいたら食べたくなって買ったビスケットを用意して、最初から最後まで丁寧に鑑賞した。少しの感情も零さないように。

途中、夕飯を作ったり洗濯物を畳んだりしたからとぎれとぎれにはなってしまったが、ずっと観たかった映画をようやく観ることができて満足である。またひとつ、とても素敵な作品に出逢うことができた。

 

愛がなんだ、同様、共感だけしていてはだめな作品だった。ただ、登場人物の些細な感情の蠢きに共鳴せずにはいられない愛しい作品でもあった。これだからわたしは邦画が好きなのだ。基本的に大きな出来事は何も起こらない。ただただ平ぺったい毎日が続いてゆく。何を選んだって結局は、一緒に夢をみた仲間に「そんなもんだよ」の一言で片付けられてしまうほど、脇役的な人生しか与えられない。だから何だ。道の向こうにいる猫に心動かされて歌を創る、そういう男に惹かれ始めて一体、どれだけの月日が流れたのだろう。いつからか、「二人の生活のため」という大義で自分のことを大切にしてやれなくなっていた。そんなのは十分物語として成り立つ、素晴らしい人生だ。「私は何をしているんだろう…」じゃないよツチダ、君はちゃんと自分の人生を一歩一歩生きているでしょう。と思いながら、わたしはひとり、ぬるくなったコーヒーを啜る。

 

 

 

映画を観られる時間が確保できるのはありがたいことだが、あまりにも休みが長いとリズムが狂う。もう、週のうち5日間働くのが「普通」となってしまったので、4連休(わたしは土曜日出勤を入れてしまったが)をのんびりすごす、なんてことはできない。何かしないといけない気がして家中の布を洗濯したり、いつもは手が届かないところを掃除してみたりする。休日だろうと関係なく22時には眠くなって6時には目覚めるので、夜ふかしをしてしまった、なんてこともない。

 

GW同様、引越しで連休を潰している。同時並行の引越しはさすがに初めてなので全部メモに残さないと、何をどこまで進めたのかわからなくなる。失敗も経験のうちとはよくいうもので、経験を積むことで初めて「知っている」ことが増える。至極当たり前のことだが、とても大切なこと。わかりやすい業績を求めて面倒くさい責任を回避する大手に頼みたくないこともある。理不尽な口コミに怯えるブラックな構造で闘う個人業者とをうまく使い分けて、理想のかたちを模索する。やりやすいようにやろう。なるべくストレスがかからないように進めよう。

 

あと少し、あと少しで落ち着くから。たぶん。

 

 

210704

 

頼むからまっとうに、まっとうに生きてくれ。同じわたしが語りかけているとは思えない、誰の意思かも、誰の言葉かもわからない。いまわたしは、過去のわたしに警告する。後から振り返ったときに、悔やむ選択だけはしないで欲しい。結果はどうもできないとして、「悪いほうが面白い」だの、「真面目すぎるのはつまらない」だの、大学生みたいな根拠でものを選ばないで欲しい。言動の責任はお前しかとれない。

 

 

 

 

 

 

会う人会う人に「大人っぽくなりましたね」「雰囲気変わりましたね」と言われる。そりゃあ、社会人になってもう3ヶ月も経つわけだから、ある程度大人ぶっても許されるはず。お給料も3回貰ったし、人生初のボーナスだって経験した。6月の大安の日に、「賞与」と書かれた封筒をもらった。今時ボーナスは現金で渡されるのか!と思ったら、中に入っていたのは折りたたまれた給料明細だった。相変わらず、少し考えたらわかることに驚かされている。

 

わたしの雰囲気が変わったのは、余裕が生まれたから。もう、焦らなくてもいい。焦っていないことを急かす人もいない。自分で働いたお金でちゃんと生活している。せめてそれくらいの誇りは持たせて欲しい。

 

 

でも、わたしがそう思うなら、本当にそう思っているなら、もう若気の至りとか言いながらエッセイのネタを探しに冒険しないで欲しい。わたしはわたしのことが時々、本当に心配になる。「自由人で家庭を省みない」のは、あなたじゃなくてわたしなのかもしれない。わたしはその言葉をあなたではなく、自分に発していたのかもしれない。落ち着きがないのはわたしの方で、諦めきれていないのはわたしの方で、腹を括れていないのも、ぜんぶわたしだった。他人が許せないのは、自分を許せないから。

 

やるもやらないも、選択だ。ひとつひとつを選んでいる。明日からまた新しい1週間が始まる。まっとうに、自分のことを許してあげられる選択をするように。引き受けるのは、あなたでしかないのだから。

 

わたしは頭が良い子だから、ちゃんとわかっているとは思う。でも行動で表さないと、疑われてしまう。こうやって、自分で自分を疑った文章をネットの海に晒してしまう。かたちに、行動に、表さねば意味がない。目に見えない意思とは、そういうもの。意味がなくてもいい意思もあるけれど、これは、だめな方だ。

 

 

210315

今更、「生きてるだけで、愛」を観た。案の定だ、と思うわけだけど、寧子が全裸になって夜の街を全力疾走するシーンで息ができなくなった。前情報を入れたあとに観ても、再生している間ずっと頭を鈍器で殴られ続けている感覚に縛られたままだった。エンドロールがとてもとても美しくて、映画館で見逃したことを心の底から悔やんだ。エンドロールだけでも、映画館で観たかった。

 

映画を観終わって真っ先に思ったことは、「寧子のような生き方が羨ましい」、だった。過眠症で鬱病の主人公のなにが羨ましいだろう。バイトすらも続けられないのは本気を出していないからだと、やる気がないからだと、ふつうに生きられている側のひとに鼻で笑われてしまう──下に見られる、寧子の何か「羨ましい」のか。わたしはたぶん、どれだけ他者に見透かされたと思っても、自分が怖いと思っていることが共感されなくても、自分自身に絶望しても、絶望的な自分と一生別れられないということが何よりもの苦痛だと知っても、全裸で夜の街を走ることはない。「走らない」のではなくて、「走れない」。自動販売機に頭をぶつけて、血を垂らしながら全力疾走なんて、できる器じゃない。

 

こんな世の中のことを、心の底から「大好き!」だと思って生きているひとは絶滅危惧種に認定されていて、(寧子ほどズレを全身に浴びながら生きている人は少なくても)みんな、小さな鬱憤の中でどうにか息をしている。それでも、「破壊」なんてできない。壊せない。壊すほど吹っ切れていない。寧子が羨ましい。寧子と一緒に生きる選択を取れた津奈木が羨ましい。寧子を羨ましいと思える津奈木に選ばれた寧子が羨ましい。

 

 

わたしが寧子になることはないとして、寧子のようなひとが現れたときにどう接するか、については、考えてしまう。その子を「気持ち悪いもの」として排除するなんてことだけは絶対にしたくない。ただ、「家族だと思っていいから」なんてことも、死んでも口にできないと思う。でも、ウォシュレットが怖いという寧子に目線を合わせようともしないで否定する、ということも決してしない。それだけはいえる。

たぶんわたしは、「あなたのことが羨ましい」と、素直に言ってしまうと思う。寧子からしたら『お前みたいに上手く生きられる人はいいよな』と言われるかもしれないけれど、「それでもわたしはあなたの生き方を羨むんだよ」、と言うだろう。折れて生きるしかない、自分を殺すほどではなくてもできる限り妥協して、世の中と上手く折り合いをつけて生きているわたしは、全裸で全力疾走するあなたを羨ましいと思う。

 

その一言のほうが、「家族だと思って‥」よりも寧子の心に届くんじゃないかな、と思ってしまうのはさすがに自惚れ過ぎか。

 

 

 

210313

 

いま手にしている大切なものを溢してしまわぬように、毎日気を遣って生きていたら、なにが大切なものなのかわからなくなりました。あまり難しく考えないほうがいいよって、物事を深く難しく考えたことがなさそうなひとに言われても困る。あなたにそれを言われてもねぇ。正論がまったく、耳に入ってこない。何事も煮詰め過ぎはよろしくない。それは人間関係において特に当てはまることだと思う。焦って下す判断は危ない。見落としている何かが、必ずある。何事にも言えることだが、「いますぐ判断を下す必要はない」。そもそも、焦って良いことなんてひとつもない。あなたの言う通り、結局は、少しずつ、1歩ずつ、焦らずにやっていくしかない。

 

良いものを良いものだと気づくためにはそれなりの時間が要る。そういう場合もある。わかっていても、それでも、上手く効率よくやろうとしてしまう。良いものを良いものだと気づくために、効率なんてものは考える必要はないはずなのに。

 

 

 

泣いているわたしのことを、笑い飛ばしてくれる方がいい。少しだけ腹が立つけど、それに救われているのも事実だ。「ばかだなぁ」と、自分で気づけるようになれたのは、あなたがわたしの中に余白を作ってくれたから。煮詰めすぎないことそれ自体が直接、やさしさに繋がることもある。難しく考えること、それ自体が悪いわけではない。しあわせ、たのしい、うれしい、は、それだけで価値のあるものだと、わからなくなったら終わるんだろうなぁ。

 

自分が生んだはずの想像に殺されてしまう前に、どうにかする。「どうにかなるように、どうにかする」。

 

 

210310

きょうの夕飯はカレーにしようかどうしようか、朝からずっと迷っている。カレーを作ること自体は何の苦でもないのだけれど、明日は珍しく用事が3つもあるので、「2日目のカレーが食べられない」のだ。それがネックである。いやでもここ1週間くらいは、余った豚肉を使う機会が欲しいと思いながら過ごしてきたので、これをいいきっかけだと思って棚の奥に眠っていた煮干しでだしを取って、ポークカレーでも作ることにするか。

因みに沖縄でポークカレーというと、中に入っているのはスパムのポークである。では、いわゆる一般的な豚肉を使ったカレーは何カレーになるのだろうか。 

 

 

 


みんな、それぞれの痛みを感じながら生きていて、他人の痛みを味わうことは絶対にできない。他人の痛みを100%理解することを「認める」というのであれば、多様性を認めるなんて到底できるわけがない。そんなのもとから不可能だ。それなのに、それっぽい言葉だけがこの世界の上辺をつるつると滑っている気がする。


ポークカレーという名の豚肉カレーが出てきたときにわたしが感じる違和感やズレをまるまる他人に理解してもらいたいとは思わない。ただ、誰かにとってのふつうをズレていると感じているひともいるということ、そして、その人にとってそれは紛れもない事実であり真実であるということを"想像"してもらいたい。想像することしかできないということを知ることができたら、本当の意味で他人にやさしくなれると思う。それは、「痛み」についても同じことがいえるのではないか。なーんつって。

 

 

210103

 

実家の台所、大きなお鍋でミルクティを煮ている。ぐつぐつ。じんわりとあたたまっていく白い液体を眺めながら、大切な人が寂しさに潰されそうになっている夜にこれを作ってあげたい、と思う。小さく揺れているこの液体はいつか誰かの心を癒やしてくれるだろう。それはとても、素敵なことだ。でも、わたしのことだから、たぶんミルクティを好かない男を好きになってしまうのだと思う。ミルクティが好きな男を、たぶんわたしは好きになれない。

 

そういえば最近、確信したことがある。わたしは男の人の身体を美しいと思えていない。まったく。そこにあるのは生物の肌で、それはただの物質。それ以上のことを、そこから受け取ることができない。男の人を美しいと思えるのは、無防備な状態であるとき。飾らない、飾ることができない、その人がその人として、ありのままでしかいられない空間を(わたしが)創ってあげられたときにだけ、ほんの少しの幸福を感じる。不必要な雑音、言葉のない──それでいて満たされている──空間のほうが、目にみえるわかりやすい何かよりもよっぽど美しい。目にみえるもの、触れられるもの、かたちがわかるもの、言葉に表せられるものというはそれだけでつまらない。わたしも弱い人間のひとりなので、モノに縋りたい──縋らないと生きていかれない、人のきもちも痛いわかる。愚かだと知りながらも、モノを強請ってしまうこともある。でも、欲しいものや欲しい言葉を手に入れた瞬間に、わたしが本当に大切にあたためているものの生命がぷつりと途絶えてしまうこともわかっている。だから、わたしの手元には"なにもない"。それを望んでいるし、実際に叶えられてもいる。何も悲しいことではない。足らないことは、不幸を意味しない。

 

 

201120

「やってみなきゃわからない」ということがあまりにも多過ぎて、いちいち疲弊する。いざ、というときに躊躇いもなく飛び込める種類の人間がいる、ということに気付きたくなかった。小学生の頃は、みんながわたしと同じように、大縄跳びで自分の順番が来るのを、日直が回ってくるのを、出席番号と同じ数字の日が訪れるのを、ひどく恐れていると思っていたのに、実際は全くそんなことはなかった。まあどうにかなるでしょ、と思える種類の人がいる。失敗してもぼくのせいじゃないし、と思える人がいるということを、知らないまま生きたかった。

 

自己防衛でも現実逃避でもなんでもいいから、「鈍感」になってみたい。何も感じない人間になりたい、とは思わないし、すみっコぐらしの映画の感想をわたしに伝えながらぼろぼろと泣いちゃう友達のことを人間らしくて美しいと思うし、多感だから得られたものがたくさんあるということもわかっているけれど、たまに(いや、全然たまにではない、頻繁に)疲れてしまうから。よく、疲れてしまって、動けなくなってしまうから。身体というより、心が、疲れて動かなくなる。動くことを拒否する。

 

"清々しい"と表せられる青空をみても、愛らしい鴨の親子をみても、アスファルトの上でぐちゃぐちゃに潰されたタバコをみても、何も感じない。何を見ても、「あー、疲れたな」としか思えない。できれば、そういう状態になりたくないのだけど、結局「多感」は疲れる。

どうやら世の中では'繊細さん'というやつが流行っているらしい。「わたしと同じような悩みを抱えている人がいる」ことを知るだけで救われるほど、簡単な話ではないと思うのはわたしだけなのだろうか。繊細さんにしても○型自分の説明書にしても、当てはまることと当てはまらないことがある。それは全部に言えることだから、結局は何でもない、のかもしれない。

 

自分が繊細さんでも、友達が繊細さんでも、実はこの世のみんなが繊細さんでも、逆にこの世の誰も繊細さんでなくても、わたしがいま疲れている、という事実は変わらない。残念ながら、なにも。