他人の人生

210315

今更、「生きてるだけで、愛」を観た。案の定だ、と思うわけだけど、寧子が全裸になって夜の街を全力疾走するシーンで息ができなくなった。前情報を入れたあとに観ても、再生している間ずっと頭を鈍器で殴られ続けている感覚に縛られたままだった。エンドロールがとてもとても美しくて、映画館で見逃したことを心の底から悔やんだ。エンドロールだけでも、映画館で観たかった。

 

映画を観終わって真っ先に思ったことは、「寧子のような生き方が羨ましい」、だった。過眠症で鬱病の主人公のなにが羨ましいだろう。バイトすらも続けられないのは本気を出していないからだと、やる気がないからだと、ふつうに生きられている側のひとに鼻で笑われてしまう──下に見られる、寧子の何か「羨ましい」のか。わたしはたぶん、どれだけ他者に見透かされたと思っても、自分が怖いと思っていることが共感されなくても、自分自身に絶望しても、絶望的な自分と一生別れられないということが何よりもの苦痛だと知っても、全裸で夜の街を走ることはない。「走らない」のではなくて、「走れない」。自動販売機に頭をぶつけて、血を垂らしながら全力疾走なんて、できる器じゃない。

 

こんな世の中のことを、心の底から「大好き!」だと思って生きているひとは絶滅危惧種に認定されていて、(寧子ほどズレを全身に浴びながら生きている人は少なくても)みんな、小さな鬱憤の中でどうにか息をしている。それでも、「破壊」なんてできない。壊せない。壊すほど吹っ切れていない。寧子が羨ましい。寧子と一緒に生きる選択を取れた津奈木が羨ましい。寧子を羨ましいと思える津奈木に選ばれた寧子が羨ましい。

 

 

わたしが寧子になることはないとして、寧子のようなひとが現れたときにどう接するか、については、考えてしまう。その子を「気持ち悪いもの」として排除するなんてことだけは絶対にしたくない。ただ、「家族だと思っていいから」なんてことも、死んでも口にできないと思う。でも、ウォシュレットが怖いという寧子に目線を合わせようともしないで否定する、ということも決してしない。それだけはいえる。

たぶんわたしは、「あなたのことが羨ましい」と、素直に言ってしまうと思う。寧子からしたら『お前みたいに上手く生きられる人はいいよな』と言われるかもしれないけれど、「それでもわたしはあなたの生き方を羨むんだよ」、と言うだろう。折れて生きるしかない、自分を殺すほどではなくてもできる限り妥協して、世の中と上手く折り合いをつけて生きているわたしは、全裸で全力疾走するあなたを羨ましいと思う。

 

その一言のほうが、「家族だと思って‥」よりも寧子の心に届くんじゃないかな、と思ってしまうのはさすがに自惚れ過ぎか。